巨匠の思い出

2023年12月も半ばを過ぎたころ、CCQの初期メンバーの方から巨匠が亡くなられたとの一報があり、胸のあたりがズンと下に落ちていきました。

ここ最近は長らくお会いしていませんでしたが、お電話で話す限りは以前と少しも変わりなく、いつも話が弾んで長電話となり、自分が福岡に行くときは連絡するから会おうよと言われたので、それなら私のほうがお尋ねしますと言っていたところでした。
それなのに、距離もあるためぐずぐずしているうちに訃報に接することになるなんて、まさに後悔先に立たず、自分の動きの悪さに無性に腹が立ちました。

巨匠とはじめてお話したのは1992年、日本シトロエンクラブの名簿を手にしたとき、九州のメンバーがたった一人ということにショックを受けて、まずはその方と話をしてみようと勢いにまかせてお電話したときでした。
そのとき受話器を取られたのが巨匠ご自身で、初回からおおいに盛り上がって2時間くらいしゃべってしまい、それからというもの電話の往来も頻繁になりました。
親子ほども歳の違うアカの他人同士だというのに、好きなことが介在するだけで、旧知の間柄のように話し込んでしまい、趣味というものの特別な力に感じ入ったことを今でも覚えています。

ほどなく巨匠が福岡に来られるというので、当時のディーラーで待ち合わせて初めてお目にかかり、それからクラブ設立へ向けてのやりとりを重ねることになります。
なにより印象的なのは、常に自然体で泰然自若、作為というものがまるでない方で、ぶれない軸があり、小柄な方ではあったけれど、KさんがグループLINEのコメントに書かれたように巨きな方だったと思います。

巨匠は、シトロエン以外にも幾つもの趣味をお持ちで、そのどれもが奥深くまで極められているのは呆れるばかりでした。
好奇心が強く、何事も本質をつかまえる能力があるためか、興味を示すことは一気に深化し、趣味化してしまうのかもしれません。
一度、とあるピアノリサイタルにお招きしたことがありますが、開口一番「あのピアノの木材は何を使っているのか?」「産地は?」などと次々に尋ねられ、やはりちょっと目のつけどころが違っていたようです。

技術的な造詣も深かったけれど、ほがらかにくだけた面もお持ちで、気がつけばいつも話の中心におられ、自然に人が寄ってくる不思議な力があったように思います。
何事においても力みというものがないため、自然体で語られる言葉には深いところに残る説得力がありました。

人に対してもとても温かい人でしたが、怒るべきは大いに怒り、不愉快は不愉快としてはっきりと口にされるあたり、オトナぶってお茶を濁すような表面処理は決してされないのはまったく痛快で、そのあたりも私とはウマが合った(と勝手に思っているだけかも)ところです。
腹が立つことがあれば、ストレートにそれを口にされるなど喜怒哀楽のある生身の人間としての魅力があり、なにかというと小手先のオトナアピールだけで誤魔化して善人ぶる小者とは、根本的に違っていました。
最後の頃に電話で聞いたのは、あることでえらく憤慨され収まらない様子だったのは驚きでした。聞くにつけこちらまで心が痛み、おひとりでそんな不快に耐えておられたのかと思うと無性に気の毒で、巨匠に対してそんな気持ちを覚えたのはこれが最初で最後でした。
メカニカルな話はあまりお付き合いできないぶん、そういうときの私は(自分でいうのも何ですが)適任で、大いに同意共感憤慨を総動員して加勢したので、少しでもお気持ちが軽くなられたなら良かったけれど…と思いましたが、本当のところどうだったかまではわかりません。

いま思えば最後の電話で印象に残った話といえば、要約すると、実はもう一度大型のシトロエンに乗りたいと思っているので、良いのがあればC6を世話してもらいたいというものでした。
むろん快諾し、これは程度の良いC6探しをしなくてはいけないかも…と心づもりはしていましたが、その後、話は具体化しないままになったのは残念でした。
どうやらご子息に運転してもらって、ご自身はリアシートに乗るつもりだったようです。
それにしても、90歳を前にして大型車がほしいなどと真剣に言う人は、いまどきなかなかいないと思います。
なんでも合理化小型化とダウンするほうにばかり向かうご時世に、実現はしなかったものの最後まで豪快な巨匠でした。

巨匠という人のおかしみは、小事では変な倹約をされたり安く済ます方法をやけに追求されたりするかと思えば、大きな買い物は臆せずされるし、ディーラー近くのうどん店でメカニックたちが休憩時間になにか食べている姿を目にすれば、こっそり彼らの勘定を済ませて黙って店を出て行くような気分もあって、それらが矛盾なくまとまっている方でした。

司馬遼太郎によれば(作品は忘れましたが)、江戸時代長崎の商家の旦那衆の中には、趣味が昂じて、ついには学者並みの知識教養を持っていた人が少なくなかったのだそうで、それだけ趣味とは打ち込む値打ちがあるということだろうと思います。
同じ人生でも、趣味があるとないとでは、その彩りや過ごす時間の密度は大きく違ったものになるはずで、趣味から得たものが趣味以外の全生活にまで切れ目なく息づいている見本のような人でした。

学問はただ知識を増やすだけでなく、思考力を鍛えるという面があるように、趣味は感性を鍛える楽しき道場なんだと巨匠から教えられたように思います。
まさに「巨匠」でした。

追記。後日、巨匠のご子息とお話する機会がありましたが、なんとここ2〜3年は腰を痛めて入退院を繰り返しておられた由で、歩行にも杖が必要だったと伺いびっくりしました。
電話では微塵もそんな様子はなく、冒頭に書いたよう「今度福岡に言ったときは会おうよ」とさも軽く言われていたというと、調子がいいときはときどき自分が福岡にも連れて行っていたとのことでした。
入院のことなどはごく身近の以外にはほとんど言われなかったそうで、あとで驚かれた方が多かったとか。

考えてみれば、肥前国は武士の心得で有名な『葉隠』の精神美学を生み出した地で、巨匠の生涯はそんな教えの残り香のようなものでうっすら縁取られていたのかと思うとなんだか納得がゆきました。