4 CCJ会報担当

また少し話が逸れますが、このDOLLY発行がCCJで変な誤解を生んだのかどうか、そのあたりの詳細は知りませんが、それからしばらくして、CCJの会報『CITROEN CLUB NEWS』の編集担当が辞めるので、代わりを私にやってくれないかという打診がありました。

しかし会報を作る大変さは身にしみていたし、シトロエンにおいて自分の割くべきエネルギーはなによりCCQだったので、むろんはじめは明確に断りましたが、「原稿は書かなくていいんだから」とかなんとか調子のいいことを言われて引き下がりません。それでも私が渋るものだから、ついに親しくしていた上記の方が半ば強引に(はっきりいえば勝手に!)幹事会で決めてしまったため、大いに憤慨もしたけれど、いざとなるとそういうことをやりかねない人だったし、長らくお世話にもなったことでもあり、後任が決まるまでということでやむを得ず引き受けることになり、CCJの執行部に名を連ねることにもなりました。

当時のCCJの組織は会長の上に顧問、さらにその上に名誉顧問など、カーグラ等にも登場してくるようなお歴々が居並び、そこに加わるなど思いもよらないことで、これはえらいことになったと思いました。
私が指名されたのは、まず単純に引き受け手がいなかったからだとは思いますが、会報はクラブのいわば顔のひとつでもあるため、むやみに誰でもいいというわけにもいかなかったようで、これを自分で言うのは憚られるところですが、長いお付き合いの中で最低限の品位を保てる相手だろうという判断はあったようで、そんなこんなで腹をくくった次第でした。

期間としては1997年夏の76号から2003年の100号までの6年間に及び、『CITROEN CLUB NEWS』は季刊誌で年四回の発行でしたから、私の手から[計25冊の会報]と[別冊2冊]、計27冊が発行されたことになります。
いま思い返せば、いい経験だったとも思いますが、編集、目次作り、表紙デザイン、編集後記、印刷依頼、さらには発送作業までをすべてをひとり(友人の手助けも少しはありましたが)でやっていたものだから、さすがに息切れして100号までと思い定め、これを区切りにこの役目から退きました。

会報を担当したおかげで、ささやかなご縁も広がりましたし、日本のシトロエンの父ともいえる椙山氏から「あなたが一番大変なことをやってくれているね、よろしく頼みます。」といった労いのお言葉をいただいたり、会員ではないけれど小林彰太郎氏のご自宅にも毎号送っていましたが、「僕は天邪鬼だから、本を手にとった時、はじめから読むことはあまりなく、なぜかいつも編集後記あたりから読むんだ」と、貴方の文章を最初に目を通しているよという、いかにも小林さん流の身に余るお言葉をいただいたこともあり、これは嬉しいというよりはビビリました。
なにしろ相手はあの小林さんですから、そんなことを言われてしまっては緊張して却って書けなくなったりもしましたが、それらも今となっては人生の得難い思い出になったことは間違いありません。

この一連の苦役はひどいことにまったくの無報酬!で、会費免除さえもありませんでした。こんなことってあるでしょうか?
あとに続く方も、それではなかなか難しいだろうと思い、私が手がけた最終号の編集後期には、ついにその点に触れて、後継者には最低の報酬が必要だということを思い切って訴えました。その後そのあたりが改善されたのかどうかは知りませんが、私なりの問題提起はした上で退いたつもりです。
現在のCCJ会報は、ついに専門職に委託され、そのぶん費用もかかるのか発行回数も年に4回から2回へと半減しているようで、さすがにあんな無茶な奉仕の引き受け手はもう見つからなかったのだろうと思います。

このころのCCQはCCJの九州地区ブロックという立場も兼ねており、これは本来でいうと少しおかしなことだったかもしれませんが、会報編集のような割に合わないことをやってくれているから大目に見てもらっていたのか、別の思惑があったのか、単なる放置だったのか、そのあたりを確かめてみたことはありませんが、なんとなくそうなってしまって、そんな不思議な位置づけでもありました。