SMの悲運

レモンマンのきっかけになった書籍『シトロエン  革新への挑戦』は、創業時からの各モデルごとの解説がされていて、あらためて読み返してみると、まだまだ知らないことは山積みで、シトロエンというメーカーの偉大な歴史と、常に時代に先んじてきた革新の精神と実践には、驚きと感嘆をあらたにするばかりです。

その中から、SMに関することを。
シトロエンがマセラティを傘下に収めた時期に構想された、シトロエンとしては唯一の高級2ドアクーペ、その流麗な姿とカリスマ性は、歴代モデルの中でも最高ランクに叙せられるものだと思います。
ちなみにこのSMほか、DSの猫目へのフェイスリフト、GS、CXなどはロベール・オプロンの手になるデザイン。


優美で流れるようなサイドビュー。下部にはモール類など一切廃され、ボディがスパッと切り落しになっているあたりに一種の危うささえあり、壊れやすい美術品のような感じが漂います。

SMの意味は「Sport Maserati」なのだそうで、へえぇ、そうだったんだ。
マセラティ社が設計した2.7L-V6エンジンが搭載され、その後、排ガス規制の厳しい北米向けに3Lも追加。

シトロエンはSMを通じて、ハイドロニューマティック+FFによるオーバー200km/hでの安定した走行性能を打ち立ててみせたほか、CXやXMでお馴染みとなるパワーセンタリングも初搭載、SMではハンドルを一回転させたただけでロックするというウルトラクイックな設定。

ま、そんなことは皆さんあらかたご存知のことですね。
このクルマが販売開始されて3年ほど経った1973年、第一次オイル・ショックが世界を覆います。
これを機にシトロエンの大株主だったミシュランは持ち株をプジョーへ売却、新経営陣の判断により、SMはあっけなく生産打ち切りの宣告が下されるという悲運に見舞われます。

残った製造はリジエ社に委託され、300台近くがなんとか生産されたものの、一説によれば、この時点で約500台分のボディシェルが残っていたとか…。
シトロエンとしては、せめてその分だけでも完成させて欲しいとプジョーに懇願するも、プジョーの経営陣には聞き容れられることはなく、返ってきた返事は「すべてスクラップにせよ」という非情なものだったとか。
これにより1975年、SMは完全に息の根を止められます。


デビューの約一年後、オプションでカーボンファイバー製のホイールが存在したようで、製造はミシュラン、重さはスチール製の半分以下!だったとか。おそらくこの写真に映るホイールがそうだろうと思います。

あんなにも美しい、文化財と呼んでもいいような車に対する、この残酷な処遇は身震いがするようでした。
企業とはそういうものだと云ってしまえばそれまでですが、この車に心血を注いだ人たちはこれをどう受け止めたのか…。

いつだったか、虎ノ門のホテルオークラ旧本館の建て替えにあたって海外から保存運動がおこり、「日本は古いものを大切にする意識の薄い、建て替え文化だ!」と欧米文化人から意識の低さをずいぶん非難されたものですが、「ふん、同じじゃないか」と思いました。

プジョーのあのマーク(現在のワッペン型になる前の)、両の手を上げ、ガオッと口を開け、舌を出して雄叫びをあげるライオンに、しなやかな鮎のようなSMがガブリと喰いちぎられたようでした。

技術的には成功でも、商業的には失敗という点で、SMはコンコルドに共通すると書かれています。
今日の目で見ればSMの性能は大したものではないかもしれないけれど、生産終了からすでに50年が経過することを思うと、その先進性には驚かされるばかりです。


およそ25年ほど前、CCQのKさんがSMを購入され、東京から博多港へ到着したのを引き取りに同行したことがありました。埠頭に着くとSMは積載車に乗せられている状態で、当時の我が愛車であるXmと上下に並べるようにしてシャッターを切るチャンスに恵まれ、XMのディテールがいかにSMを源流とするものであったかというのがわかります。リアのキックアップはもちろん、三角窓やフロントのライト周り(六灯式+プレキシグラス付きではよけいに)、薄いルーフ、さらにXMの初期型のホイールはここにあるSMのそれに酷似していたなど、あちこちにその痕跡を発見することができます。ロベール・オプロンの手になるSMの流麗なフォルムに対し、XMはBX以降のベルトーネによる直線的な方向へと書き換えられてはいるけれど、それでも、この両車には強い関係性があることを私は疑いません。ちなみに写真のダークグリーンのSMは、Kさんが購入されたSMに「付属して」送られてきた「部品取り」の一台で、つまり二台のSMがKさんのガレージに収まることになりました。さらにこのXmも10年ほど前からKさんのコレクションに加えていただいています。

レモンマン

いまさらですが、シトロエンの名前の由来はご存じですか?

『シトロエン  革新への挑戦』(ジョン・レイノルズ著 二玄社)を読んでいると、コラムでそれに少し触れられていたことから思い返し、CCJの小冊子などを引っ張りだして、少しまとめてみました。

アンドレ・シトロエンの父はオランダ人、母はポーランド人で、父方の祖先はアムステルダム界隈で植民地から送られてくるレモンやトロピカルフルーツを扱う商人だったことから、その商売にちなんで「Limoenman(レモンマン)」と名乗っていたそうです。

その後、オランダ政府が国民に姓名を定めて登録するということになり、そのときLimoenから、おなじくレモンを意味するCitroenと称するようになったそうです。
アンドレの祖父の代が、Citroenを名乗った初代のようです。

試しにGoogle翻訳に日本語で「レモン」と入れ、オランダ語に変換すると「citroen」と出てくるのはワォ!となりました。

レモンの商いで一族は財を成し、やがて宝石商など幅広い業種を手がけて裕福なファミリーとなって繁栄を広げていったようです。
その一員であった父も結婚し、二人してアメリカかフランス、いずれかへ行こうと迷った際、妻の実家であるポーランドに近いという理由からフランスになったのだとか。
こうして1878年、パリで生まれたのがアンドレだそうです。

両親のフランス移住後、フランスの流儀に従って「e」の上にトレマという・・がつくようになったことで我々の知るシトロエンとなり、これによってシトロエンのアクセントは、頭ではなく「エンの部分」につくようです。

そんな目で見てみると、レモンの形はどことなくスフィアのようにも見えるから不思議ですが、アンドレは1935年にこの世を去っており、ハイドロニューマティックとの関わりはありません。DSの登場はその20年後の1955年、その少し前に試験的にトラクシオン・アヴァンのリアにハイドロが装着されたモデルが作られ販売もされたようで、停めているとリアだけが下がってくることで区別がついたとか。ユーザーからの評判は上々で、割高であったにもかかわらず販売数は標準モデルを上回るほどで、この「後ろだけハイドロ」はかなりの数が出回っていたようです。

ずいぶん昔、友人から「シトロエンって、レモンのことかなぁ?」と言われて、「はぁ? ぜんぜん違うよ!」と一笑に付した覚えがありますが、なんと、それが正しかったわけです。
子供のころ、リボンシトロンというジュースがありましたが、調べると今もあるようで、なんだか無性に飲んでみたくなりました。
以上、NHKのファミリーヒストリーのようなお話でした。

歴史資料

7月のお茶会でのこと。
大分のAさんがやけに大きな布バッグをお持ちでしたが、食事などが一段落ついた頃、やおらそれを取り出されると、まるで裁判記録か?と思うほどの分厚いファイルでした。

このように撮り方を失敗してしまい、あとからAさんが写真も送ってくださいました。

むかしCCQで行なっていたミーティングの案内と、各人が思い思いに書いた記事や文章の類をまとめたものをメールサービスとして毎月送付していたもので、Aさんはこれを入会時から丁寧に保管しておられたらしく一同びっくりでした。

あまりの厚みに、てっきりすべてかと思っていたら、そこにあるのは1997年1月〜2008年12までで、まだ2009年から2017年まで8年ちかくあるはずで、うひゃあと気が遠くなりそうでした。

どっしり重いカーセンサーのEDGEとくらべてもこれほどの量
こちらはCGですが、まだ今ほど薄くない時代、置かれているのはC6が日本上陸した時の(2007年1月号)で、表紙はヴェールヴェガのC6となっており、Aさんのさりげない配慮がニクいです。

ちなみにお茶会スタートとホームページの新設により、メーリングリストは2017年4月をもって廃止となりました。

サイズはA4、とても全部を見おおせる量ではなく、やむなくパラパラと見るだけでしたが、なつかしい方の名前や折々の様子がそこここにあり、しばし思い出にふけることができ、まぎれもないCCQの歴史資料でした。

「塵も積もれば…」「継続は力」とはこういうことかと感じるいっぽう、現代は様々な記憶媒体が発達していますが、こうして確かな形で実体として残るのは「やっぱり紙だなあ」とも思いました。
もちろん場所は取るし重いけれど、人の気持ちが自然に和むのはUSBナンタラや液晶画面ではなく、結局こういうものですね。

2017年4月に発行した、メールサービスの最終号(冒頭部分)。
通算246号のようですが、創設と同時ではなく4年後ぐらいからのスタートでした。